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いつものまちが博物館になる

土木と文明

第5章 都市デザインの多様性

2018年6月8日/未分類
『百橋一覧図』北斎画 太田記念美術館所蔵

第5章 都市デザインの多様性

5-1 類型

我が国の都市は、古代から現代にいたるまで、実に多様な都市の“類型”を誇っている。それらの都市は、自然地形を巧みに生かしながら、社会背景に応じて求められる都市機能を発揮するため、当時の技術者が知恵を絞り、工夫を重ねた末に実現したものである。すなわち、そうした多様な都市類型は、都市をデザインする技術の豊かさの表れということができよう。その豊かな技術を確かめるべく、古代から現代にいたる我が国の都市類型の変遷をたどる。(阿部)

古代都城

7世紀以来、我が国の「都城」は遷都を重ね、794(延暦13)年には藤原京から平安京へと遷都が行われた。中国の都城をモデルとした平安京は、四神相応の理念にかなった京都盆地の北部に開かれた。東西の大路“条”と南北の大路“坊”で40丈(約120m)四方の街区を区画する条坊制の都市デザインは、まさに古代律令制の象徴と見ることができる。
「平安京復元模型」は、縮尺1/1,000で復元された我が国最大級の歴史都市復元模型である。(阿部)
「平安京復元模型」京都市歴史資料館提供

門前町

中世から近世にかけて、社寺の祭礼や法会の際に設けられた祭礼市が常設化し、参道沿いを中心に宿坊や茶屋、旅籠屋などが建ち並ぶ「門前町」が形成された。
「讃岐国金毘羅山象頭山金毘羅神社絵図」は、1755(宝暦5)年に書写された金毘羅神社の絵図で、参道に沿った門前町の様子を読み取ることができる。(阿部)
「讃岐国金毘羅山象頭山金毘羅神社絵図」国立公文書館所蔵

寺内町

室町時代に入ると、真宗の信者等が集住し、周囲に防御のための濠や土塁を巡らせた「寺内町」が建設されるようになる。寺内町には、自治特権を得る都市もあり、また交通の要衝に立地することが多かったことから、近世にかけて商業都市へと発展した都市もあった。
「富田林村絵図」は、1778(安永7)年の富田林を描いたもので、寺内町の特徴である環濠集落の形態をよく表している。(阿部)
「富田林村絵図」富田林市教育委員会所蔵

湊町(中世)

中世以来、水上交通の発達に伴い国内外の交易が活発化し、その拠点として「港町」が形成された。
摂津国と和泉国の国境に位置する堺もその一つで、国際貿易港として莫大な富を蓄積した。「堺大絵図」は、大坂夏の陣からの復興後の市街を描いたもので、街区は東西・南北方向に配置された街路により整然と区画され、周囲には新たな環濠がめぐらされ、さらに市街と港は掘割によりネットワークされていることがわかる。(阿部)
「堺大絵図」国際日本文化研究センター所蔵

在郷町

近世に入り、商工業の発達と地場産業の確立を背景に、農村部における各種商品の生産や製造等の拠点として発展した都市を「在郷町」と呼ぶ。在郷町には、商品作物の流通にかかわり、産業都市として発達した都市も多い。
製磁町として知られる有田も在郷町の一つで、近世以来、日本国内のみならず欧州各国へ磁器を輸出してきた。「松浦郡有田郷図」は、江戸末期の有田内山地区の様子を詳細に描いた絵図で、磁器製造と密接に結びついた都市構造の特徴を読み取ることができる。(阿部)
「松浦郡有田郷図」(部分)佐賀県立図書館所蔵

宿場町

中世に発生した宿は、近世に入ると、五街道をはじめとする街道沿いの「宿場町」として再編された。宿場町の中心には、本陣や脇本陣、問屋場、高札場などが置かれ、街道の両側には短冊状の敷地に旅行者向けの旅籠や茶屋等が建ち並んだ。
「寛文拾壱年関宿屋並図」は、東海道47番目の宿場である関宿の江戸初期の様子を描いたもので、街道沿いに建ち並ぶ町屋が丁寧に描かれている。(阿部)
「寛文拾壱年関宿屋並図(川北政廣所蔵文書)」亀山市歴史博物館画像提供

湊町(近世)

近世に入り、全国規模の流通ネットワークが形成されると、中世以来の瀬戸内海航路に加え、日本海にも東廻り・西廻りと呼ばれる日本海航路が確立した。こうした海運の拠点として発達したのが「港町」である。水運と陸運の結節点である港町では、街路網と水路網、すなわち町と荷揚げ場が合理的に配置された都市構造を持つ。
「新潟町絵図」は、1823(文政6)年の港町新潟を描いた絵図で、街路に並行して縦横に掘割が整えられるなど、荷揚げの便に配慮した巧みな町割の様子を読み取ることができる。(阿部)
「新潟町絵図」文政6(1823)年 新潟市歴史博物館所蔵

城下町

近世に入ると、領国を一元的に支配しようとする大名により、その政治経済上の拠点として各地に「城下町」が建設された。中国の都城をモデルとした古代都城とは異なり、自然地形や社会経済の状況に柔軟に対応した城下町の都市デザインは、日本固有の都市デザインであるということができよう。
「延宝金沢図」は、延宝年間(1673~1681)の城下町金沢を描いたものとされ、中心に城を置き、二重三重の濠をめぐらす典型的な近世城下町の都市デザインを見て取ることができる。(阿部)
「延宝金沢図」石川県立図書館所蔵

開拓都市

北海道では、明治に入ると、各地に開拓使による「開拓都市」が開かれた。それらの開拓都市では、格子状の街路網による整然とした区画割が施された。
開拓都市の代表例である札幌では、1871(明治4)年に区画設定が行われ、大友堀(現在の創成川)を基軸として、その両岸に城下町の町割を思わせる60間四方の正方形街区が配置された。なお、防火帯として設けられた大通りは、現在の大通公園である。「札幌市街之図」は、1889(明治22)年に発行された市街地図で、開拓都市における典型的な格子状の区画割を見て取ることができる。(阿部)
「札幌市街之図」明治22(1889)年 札幌市中央図書館所蔵

田園都市

エベネザー・ハワードにより提唱された「田園都市(Garden City)」という理念は、20世紀初頭の都市デザインに大きな影響を及ぼした。その影響は日本にも及び、渋沢栄一らにより田園都市株式会社が設立され、洗足や多摩川台に田園都市をめざした住宅地が開発された。
田園調布は、駅を中心とした放射状の都市デザインが特徴的で、「多摩川台住宅地平面図」は、分譲当初の田園調布の状況をよく伝えている。(阿部)
「多摩川台住宅地平面図」『大田区の文化財第26集』所収

植民都市

1906(明治39)年に設立された南満州鉄道株式会社、いわゆる満鉄は、鉄道事業のみならず、鉄道駅を中心とした鉄道付属地の経営も担い、各地の鉄道付属地において、円形広場と放射状街路を用いた特徴的な都市デザインを実現していった。さらに、1932(昭和7)年に満州国が建国されると、首都新京において、日本人技術者らにより大規模な国都建設事業計画が策定され、大中の公園を結ぶパークシステムなど、さまざまな近代都市デザインの手法が適用された。
「新京国都建設計画図」は、1937(昭和12)年の国都建設計画図で、当時の技術者が実現しようとした都市の姿を見て取ることができる。(阿部)
「新京国都建設計画図」昭和12(1937)年国立国会図書館所蔵

住宅団地

1955(昭和30)年に設立された日本住宅公団は、4大都市圏を中心に住宅団地の建設と宅地開発事業を推進した。その最初期にあたる宅地開発が、1959(昭和34)年に入居募集が始まった常盤平住宅団地である。
「松戸衛星住宅都市計画試案」は、日本住宅公団の委嘱により民間のプランナー秀島乾が作成した常盤平住宅団地の理想案であり、近隣住区の理念を取り入れつつ、原地形を巧みに生かした都市デザインが提示されている。(阿部)
「松戸衛星住宅都市計画試案」『日本の都市づくり』所収

5-2 コンセプト

近代に入ると、都市において生ずる様々な課題に対応するため、郊外の住宅地開発とともに、既成市街地の公共空間の高質化や都市ストックの再生・再利用、さらに都市構造の再編・再構築といった手法を用いて、新たなライフスタイルの創造につながる多様な都市デザインのコンセプトが打ち出された。
ここでは、小林一三による多角的な鉄道経営を通した近代的ライフスタイルの構想、関一による大大阪の成立をめざした大阪の大改造計画、そして横浜市における人間的な都市空間の創造を理念とする戦略的な都市デザイン行政の展開を取り上げ、近代の都市デザインにかかわる新たなコンセプトの系譜をたどる。(阿部)

『小林一三による鉄道経営を通した新たなライフスタイルの構想』

明治末から大正にかけて、東京や大阪など過密化する既成市街地の周辺に、良好な住環境を備えた郊外住宅地が建設されるようになる。こうした都市の郊外化を支えたのは、主に民間の鉄道会社であり、小林一三が経営を率いた箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)もその一つである。
1910(明治43)年に開通した箕面有馬電気軌道は、開通と同じ年、沿線で池田室町住宅地(池田新市街)の販売を開始した。沿線の住宅経営を副業とすることで、本業の鉄道経営の安定を図ろうとした小林の経営戦略である。小林は、郊外生活のイメージが定着していなかった時代にあって、パンフレット等を用いてその理想的なライフスタイルを提案していった。また、沿線に箕面動物園や宝塚新温泉等のアミューズメント施設を開業したり、宝塚少女唱歌隊を組織して公演を行ったり、さらに梅田駅に日本初のターミナルデパートを開業するなど、多角的に沿線開発を進め、郊外における新たなライフスタイルを次々と提案していった。
こうした小林のビジネスモデルは、京王電気軌道や小田原急行鉄道、そして東京横浜電鉄といった東京圏の民間鉄道会社の経営にも大きな影響を及ぼしていった。(阿部)
「梅田阪急ビル(1936(昭和11)年)」(出典:阪急電鉄株式会社編「75年のあゆみ(写真編)」1982)
「池田室町住宅地」(出典:阪急電鉄株式会社編「75年のあゆみ(写真編)」1982)
「開業当時の宝塚新温泉(1936(昭和11)年)」(出典:阪急電鉄株式会社編「75年のあゆみ(写真編)」1982)

『関一による大大阪の成立をめざした大阪の大改造計画』

明治に入り急速な工業化を遂げ、東洋のマンチェスターとも称された大阪は、一方で、近世以来の狭隘な街路ゆえの交通障害や、過密な工場立地による工場公害といった課題に直面していた。そうした喫緊の課題に対応しつつ、市域拡張に伴う大大阪の成立をめざした大阪改造計画の立案そして実施を中心的に担ったのが、大阪市の助役から市長へと登りつめた関一である。
関による大阪改造の柱の一つとなった事業が、梅田(キタ)と難波(ミナミ)の南北2拠点を結ぶ都市の骨格軸としての「御堂筋」建設であった。関の計画思想は、御堂筋は“大阪市最高の機能を達成すべきものであり、大阪の中心街路たるに恥じざる幅員と体裁を備える”というものであった。御堂筋の建設は、第一次都市計画に基づく事業として1926(大正15)年に着工し、受益者負担金制度などを適用しながら、1937(昭和12)年に竣工した。ここに、幅員24間(約43.6m)、4列の銀杏並木を誇る見事な広幅員街路が実現したのである。さらに、この御堂筋の地下には、大大阪成立の一翼を担うべく、都心部と郊外を結ぶ高速鉄道の一環として地下鉄も建設された。
現在でも、御堂筋は大阪の南北を結ぶ主要幹線の役割を担い続け、その銀杏並木は大阪を代表する象徴的な景観を形成している。沿道に洒落た店舗が建ち並び、多くの人々で賑わう御堂筋は、まさに“大阪の中心街路”であると言えよう。(阿部)
「拡張前の御堂筋」大阪市交通局提供
「現在の御堂筋」国土技術政策総合研究所提供

『横浜市における都市デザイン行政の展開』

1960年代後半に黎明を告げる横浜市の「都市デザイン行政」は、デザインを基柱とした戦略的な都市マネジメントの嚆矢といえよう。横浜市の都市デザインは、幕末の開港以来港町として発展してきた歴史を踏まえ、その特徴と魅力を活かした人間的な都市空間の創造を理念とする。その実現のための手段として、高質な公共空間や商業空間の創出をはじめ、歴史的建造物等の都市ストックの再生・再利用、都市整備に関わる事業間のデザイン調整、そして建造物のデザインコントロールなど、実に多面的な取組みが展開されている。さらに、そうした取組みの推進を中心的に担う行政組織として、「都市デザイン室」が設置され、庁内横断的に都市デザイン行政の舵取りをしている。
こうした都市デザイン行政の展開により、生活の質と都市の魅力を高め続ける横浜市には、現在、基礎的地方行政団体としては最多の約371万人が居住し、さらに年間3,000万人以上の観光客が訪れている。(阿部)
「横浜みなとみらい21地区」横浜市港湾局提供
「横浜みなとみらい・ドッグヤードガーデン」横浜市都市整備局提供
「象の鼻パーク」横浜市都市整備局提供

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