東京インフラ080 お台場

<免疫系>から副都心へ


お台場の名前は、幕末、海外列強からの攻撃の脅威にさらされた江戸幕府が、品川沖につくった砲台付きの人工島に由来する。この時期、幕府に限らず、数多くの藩が沿岸に砲台を築き、城下町の防御を図った。ただ、都市の<免疫力>を高めたこの急ごしらえの設備も、薩摩と長州がイギリスなどと一戦交えた以外は、実戦で使われることがないまま、静かに余生を送っているものが多い。

「レインボーブリッジのたもとに見える小島 ━ あれが本来の「台場」というものなのです。・・・1853年、ペリー艦隊が浦賀沖に来航した折、「もしや江戸を攻撃されるのでは・・・」と怖れた幕府が、防衛のために焦りまくって造りあげた砲台の砦・・・。・・・つまり、ペリーが来なければ鎖国は解けず、デートスポット・お台場も存在しなかった、といえるでしょう。」(泉麻人)

ここお台場も、すぐにデートスポットになったわけでなく、しばらくの間は軍施設や歴史を偲ぶ史跡公園として、静かに陸地の発展を見守っていた。状況が変わったのは、1941年に東京港が国際港として開港し、高度成長期からバブル期にかけて、ここに東京臨海副都心を築く構想が打ち出されてからである。そして、1996年の世界都市博覧会という、都市開発史の一つのクライマックスに向かって、20世紀末には東京都市開発の主役を演じることになる。しかしそれも束の間、バブル崩壊の余波を受けてこの博覧会は中止に追い込まれた。

「都市博中止宣言で、てっきり建物は取り壊してしまう、といったイメージを描いていたのだが、実は都市博はどうあれ一帯の新都心開発は依然として進行中なのである。・・・巨大なビルが既に半分方できあがっていて、間を縫うようにモノレール(現・ゆりかもめ)が試運転されている。小、中学生の頃に見た”SFドラマの街”が正に目の前に完成されつつある。」(泉麻人)

埋立によって面積がさらに拡大し、今や東京区内で最も広いエリアをカバーする警察署が、今この湾岸の<免疫力>を高めている。そして臨海副都心では、ビジネスだけでなく、居住、遊び、学びの4拍子そろった新たな都市像を、この広大なフロンティアに実現しようとしている。20世紀に構想された未来都市は、今も夢の続きを追いかけている。(北河)

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引用
泉麻人:新・東京23区物語、新潮文庫、2001.
泉麻人:大東京バス案内、講談社文庫、2001.

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