東京インフラ041 上野公園

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古代、上野の山は広大な干潟に向けて南に突き出した「ミサキ」であった。台地の先端に鎮座する擂鉢山古墳や、縄文海進の名残ともいえる不忍池がそのことを物語る。

もともとは下谷に対しての上野、平坦な高台という地形上の名称だったといわれる上野の山は広く江戸市民に開放され、江戸名所のひとつとなっていった。彰義隊の上野戦争に至るまで、今やすべての歴史が封じこまれ、視覚、聴覚などの感性を喜ばせる芸術の森、文化のインフラとなった。



1622年、大僧正天海が江戸城の鎮護、天下泰平の祈願のための堂宇建立を発願し寛永寺地となり、代々の徳川家の廟所が置かれた。

「寛永寺こそ、上野の歴史のすべてを決めてゆく最初の出発点であり、この土地の源なのである」(鈴木博之)

天海は、幕府の首都たる江戸を、天皇の首都たる京都に拮抗しうる格式によって装う地政学的構想を立てた。寛永寺はそのための重要な布石であり、不忍池ー琵琶湖、中の島ー竹生島、清水堂ー清水寺といった見立てや、年号を寺号としたように、比叡山延暦寺の「うつし」によりその国家的重要性を示した。

「まさに上野は、江戸に京都をもたらす土地であることによって、江戸のへそとなったのだった」(鈴木博之)

「不忍池というのは、大昔は海の一部であったそうで、それなら琵琶湖にも劣らぬ歴史の古い沼沢であったわけだ。しかし一面、蓮の葉に覆われたこの池を見ていると、どことなく人工的なツクリモノの感じがする。天然の湖沼も都会の盛り場にかこまれると、このような有り様になるのであろうか」(安岡章太郎)

「土地を見立てる、名所をうつすというかんがえは、江戸の人たちが大いに好むところだった。・・・大局的な眺望や地勢も大事だが、小さな地形やなんでもない木や石が連想をいきいきとさせる。まさに、神は細部に宿るのだ」(鈴木博之)

上野戦争後、上野の山では樹木伐採や不忍池の埋立、大学東校の建設計画など帰属をめぐるさまざまな攻防をみたが、いずれも反対に遭い1873年の太政官布達により芝、深川、浅草、飛鳥山とともに東京府下最初の公園となったことは、この地のもつゲニウス・ロキのなせる業だったのかもしれない。(土井)

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引用
鈴木博之:東京の地霊、ちくま学芸文庫、2009.
安岡章太郎:僕の東京地図、世界文化社、2006.

種別 公園
所在地 東京都台東区
規模 面積約54ha
開園年 1873年
管理者 東京都
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