四国インフラ057 松山城公園

万民快楽の地


松山市は、松山城を中心にして街が形成されている。街の中心に据わる松山城の雄姿はランドマークのみならず愛着と誇りをもって語られている。慶長7(1602)年、この地に加藤嘉明が築城を開始し、蒲生忠知、松平定行へと治政が移るなか松山城下町はその体制を整え、現在の街並みの原型が出来上がった。この街づくりの最大の事業は城山の近くを流れていた石手川を南に約500m付替えるという治水事業を行ったことにある。確保できたスペースを利用して、上級武士を城の南側、現在の中心市街地を割り当て、西から北に町人町や寺社、東から北に下級武士、そして東西南北に家老屋敷を置いた。

明治6(1873)年の廃城令により松山城は廃城処分・大蔵省普通財産となり売却をされることになったが、愛媛県吏員伊佐庭如矢が愛媛県参事江木康直を通じて「廃城となればこれを惜しむ県民の思いは計りがたいものがあること、城からの眺望は表現しがたいものがあること」を挙げ、「万民快楽の地」として国に嘆願し松山公園として認可され、聚楽園と呼んだ。

明治17(1884)年、陸軍歩兵第22連隊が設置され、明治19(1886)年10月、軍事機密保持の観点から公園は廃止され、立ち入りが禁止された。大正11(1922)年、正岡子規の叔父・加藤恒忠(拓川)松山市長は死の直前、松山城の払い下げに奔走した。

戦後、堀之内は陸軍用地から大蔵省への所管替えにより、松山市営球場、県営陸上競技場など様々な施設が設置され、堀之内は市民の憩いの場となった。しかし、松山城は国の史跡に指定されており、これらの施設の建て替えは認められないため、順次施設の移転が進められた。その結果、広大な芝生広場のオープンスペースが現れ、多彩なイベントが開催され、日常的にも多くの市民に利用されている。(松本)

(赤色立体地図:アジア航測株式会社 国土地理院承認番号 平28情使第1285号 / 航空写真:Google Earth)

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