東京インフラ015 本所・深川

江戸の「夢の島」


「深川の地名をみると、川や海に関係のあるものが多い。・・・これはけっきょく、深川とは三角州の点々とあったあいだを埋めつないで、排水のため、そのあいだに堀や川を残したところであることをしめしている。」(松本清張、樋口清之)

陸とも海とも川とも区別のつかない輪郭に乏しい大地に、人の手で目鼻がつけられた。埋立地・干拓地をグリッド状の運河で区画し、人やモノの<血>の巡りを改善しながら、江戸・東京の新たな輪郭がつくりだされた。


「深川が市街化しはじめるのは、三代将軍家光の寛永のころからである。長盛とやらいう法印が発願し、幕府の許可をえて富岡八幡宮を建てたことによる。」(司馬遼太郎)

宗教施設を拠点として、埋立・干拓を進めるのは、江戸期の常套手段である。富岡八幡宮は、永代島という洲に永代寺と共に築かれた。そしてここを拠点として市街化を加速すると同時に、江戸のゴミ問題を解決するため、江戸中のゴミを永代島周辺に捨てるよう定めた御触れが、1655年に出されている。いわば江戸時代の「夢の島」である。こうして、都市建設に人の生活の自然なサイクルが組み入れられ、江戸・東京の人口とゴミ埋立地は共に増加し、都市の成長を支えることになる。

明治になると、富岡八幡宮の境内はわが国初の公園の一つとして位置づけられる(1873年)。そして、関東大震災後には、境内を区画する堀の跡に「クラシックなトラス状の鉄橋」(泉麻人)・旧弾正橋(1878年)が移設された。これはわが国初の国産鉄製トラス橋で、ボルトに菊の紋章をあしらい、錬鉄と鋳鉄という鋼鉄普及前に使われた二種類の鉄材をシンプルに組み上げた、近代黎明期の鉄橋の習作である。ちなみに同じ堀跡には、新田橋(1932年)という、手すりが引張力を受け持つなど珍しい部材構成をもつ橋も移設されている。

深川の北には、深川と並ぶ下町の有名どころ・本所がある。ここも広い低地で、江戸時代から造成工事が盛んに行われた。

「本所の造成についての幕府の土木能力は大したものであった。たとえば北十間川という当時としては幅の大きい運河を開削した。これによって、本所の水捌は大いによくなった。物資の運搬にも役立った。北十間川は隅田川から水を分流させたもので、東流し、旧中川に通ずるようにした。またその途中、大横川とか横十間川も開削された。さらに小名木川も整備され、もう一つ重要なことは、南北の割下水というものが開削されたことである。それらの堀を掘った土を盛りあげることで地面も高くなり、浸水をふせぐことができた。」(司馬遼太郎)

今は、10間(18m)幅もない北十間川の細く狭まった水路に、東京スカイツリーの水影が窮屈そうにおさまっている。(北河)
 

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引用
松本清張、樋口清之:東京の旅、光文社文庫、1985.
司馬遼太郎:街道をゆく36本所深川散歩・神田界隈、朝日文芸文庫、1995.
泉麻人:大東京23区散歩、講談社、2014.

種別道路橋(旧弾正橋)
所在地東京都江東区(旧弾正橋)
構造形式鉄製 トラス桁橋(旧弾正橋)
規模橋長15.7m(旧弾正橋)
竣工年1888年(旧弾正橋)
管理者江東区(旧弾正橋)
設計者国(内務省)(旧弾正橋)
備考重要文化財(旧弾正橋)
旧弾正橋技術解説

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