東京インフラ087 日比谷公園

帝都の「ザ・パーク」


近代洋風公園の嚆矢。霞が関の官庁街と丸の内のオフィス街の接点にあり、皇居・内濠などと連なる「東京セントラルパーク」を構成する。
往古は品川湾に臨む漁村であったが、江戸幕府の初期以来埋立てられ武家屋敷となり、明治初年には陸軍省に所管され練兵場が置かれた。日本橋台地から皇居へ続く埋没谷の底にあたり、谷底はマイナス20mに達する。

「明治の三十五年頃、・・・日比谷はまだ公園にならず、草の生えた空地であった。練兵はもうやらなかったが、練兵場の面影がまだそのままに残っていた。和田倉門外も大概空地で、僅かに明治生命と商業会議所と今の一号館と二号館があるばかりであった。三菱ヶ原の四軒長屋と称えた頃であとは狐狸の住んでいそうな原であった。」(高浜虚子)

練兵場が青山に移された跡地には中庭型配置による官庁街が計画されるが、軟弱地盤であった海側の土地は不適とされ、1889年東京市区改正設計において帝都の中央公園設置が決定されるも設計案の決定は難航し、ドイツ留学から帰国直後の林学者・本多静六を中心とする案への決定をみたのは、1901年のことであった。

本多によれば、「日比谷見附附近の濠は石垣とその上の木を生かしてやや、心字をくずした形の池とし、鶴の噴水のある雲形池は、ドイツのベルトラムの公園書中の模範図をそのまま借用し、他の遊歩道や運動場等もドイツ公園の型をそれぞれ応用」したもので、「公園に使ってある大きな石と、いまでもなお曲がっている黒松とは、主に取り崩された各見附跡の残り物を用い、今日の躑躅園の部分には当時売り物に出ていた大久保の躑躅園を全部五百円で買い上げて移植することにした」という。

日比谷公園にいち早く取り入れられた「三つの洋」ー「洋花」、「洋楽」、「洋食」は、文明開化の風となって都市のパークライフに吹き抜けた。1905年には公園最初の野外音楽堂であるバンド・ステージ式音楽堂が建設、陸海軍楽隊による市民のための演奏会は大いに人気を博し、日比谷奏楽と称して日本における洋楽文化の発達にも大いに貢献した。

「おお、なつかしき旧音楽堂よ、ダッチベッサリイに似たあの屋根よ」(サトウハチロー)

数々の国家的行事や政治集会等の舞台となりながら、オフィスワーカーの日常にも寄り添い百有余年の星霜を重ねる日比谷公園は、「ザ・パークー公園と言えば日比谷」(進士)であり続けている。(土井)
 

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引用
大東京繁盛記 山手編、平凡社ライブラリー、1999.
サトウハチロー:僕の東京地図、ネット武蔵野、2005.
進士五十八:日比谷公園 100年の矜持に学ぶ、鹿島出版会、2011.

種別公園
所在地東京都千代田区
規模面積約16ha
開園年1903年
管理者東京都

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